昭和46年3月16日 朝の御理解
御理解第97節「神を拝む者は、拍手して信心に向こうてからは、例え槍先で突かれても後ろへを振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ」
信心をさせて頂く者の姿勢、ね。えー、神様へ向かう心とそれが一番、うーん、正しく出てくるのが、やはり礼拝をする時だと思うんですね。いわゆる神様を拝む時だと。その拝む姿勢というのがここに仰っておられるように、このように厳しい事。例えば、えー、「物音や物声を聞くようでは神に一心は届かぬ」と教えて下さるように、えー、御祈念がなんか、えー、ちっとも、えー、実意がないと言うか、勢いがない元気がないと言うか、えー、ご祈念しながらでもちょろちょろしたり、いー、いったような人があります。
もう本当にそういう意味でです、神様に向かうということは、おおー、そういう心構えというものをね、まず大事にしなければいけんです。だからまず、御神前に向かうからには、ね、手を清めたり、口を濯いだり、また、衣服を改めたりして御神前にむかいます。向かったが最後はもう神様とね、いわゆる一対一であって、誰もがそれを犯す事ができないほどの一心というのが出てこないとその神様との、例えば交流といったものも頂けるはずありません。ね。
とにかく一生懸命なんだと。2,3日前に、えー、(いそえたち?)がゴルフを持って、朝の奉仕がせきませんでしたから、幹三郎が、えー、ご神前に御祈念の奉仕をさして頂きました。もう初めて、ああー、その時申しましたように、本当に神ながらな事であったと思うんですけれども、ちょうど彼も、おー、誕生日に当たるという日に、おー、初めて御神前で御祈念させて頂いた。しかも沢山の人を後ろにしての御祈念であった。
ですから、ああー、その一緒に御祈念をなさる皆さんも、おー、一生懸命。なにかしら、おー、その幹三郎に、まあ応援するような気持ちはなかったでしょうかね、真剣なんだ。そこから、あのー、かまされた、あの、御祈念の雰囲気というものが、私はここでこう座っておって本当に素晴らしかった。幹三郎もあんなに堂々と、おー、大祓いを、おー、奏上したり、祖先賛詞を奏上したりする事はあんなにできるとは思ってなかった。普通で話しておる時にはこう言葉がね、あの歯の所の部分を取っておりますから、けれどもはっきりした、もう言うなら堂々とした声で、大祓いを上げました。
後ろに皆さんで一緒に御祈念をさして頂く皆さんも、なら一生懸命であった。まあその日はもう幹三郎ちゃんの先唱で御祈念さして頂いたということは大変有り難かったと言うて、皆さんがお届けをされた中にも、例えば田中さんがここで言うておられるように、もう先生、今日ぐらい真剣になた事はございませんでしたちゅうて、ああいう気持ちじゃないでしょうか、後ろから槍で突かれても、それこそ後ろを振り向かんぐらいじゃなか、もう殺されたっちゃよかというようにです、もっとお広前に座らせて頂いておる、そこにものが晴れたような思いで御祈念さして頂いたというふうに、13日会の時にも発表しておられましたですね。
一生懸命と言うものがそうなんだと、ね。だから結局、一生懸命のものでなからなければならない。ね。先唱する者も後に続く者もやはりそうだと。それを御祈念はもう先生がして下さるよと、もう自分達はもうそろそろ、おー、大祓いでんなんでん上げちから、ね、そしてからけらけらしてから向こう向いたりっちゅうような事でね、もう信心が、いわゆる拝む姿勢というものがそういう事でよかろうはずがありません。ね。
そのためにはお互いがやはり、ね、御神前に座らせて頂く(たわやかなぼくにもせん?)という、その、御祈念というものが、まあ言うならば(むらかみ?)大した事はないですね。私はいつも申しますように、えー、( ? )の中で御祈念をするようなものだと、いつ(きられっとくる?)や分からん。けれ、(いままの?)半分で御祈念をする、あくびでもしながら御祈念をする、そういう御祈念で神に一心が届くはずがない。私はもう信心の稽古をさして頂く第一番の事はね、私は拝む稽古だと思うね。それが一心不乱にです、いわゆる心を乱さずに御祈念に行くけん、そこからです、ね、言うならば、ああー、頂く心の心の状態、いわゆる田中さんじゃないけれども、それこそ座っとるところを皆見たような思い。
はあ、こういう時であろうか、後ろから槍で突かれても振り向くだんのことじゃないといったような一生懸命、そういう心が見えてくるんです。一生懸命(いごくなおしとったら?)、ね。例えば、えー、ここ14日15日16日、2,3日、若先生の御祈念がもう本当にここに座っておって、私がすごいと頂かしてもらいよって、私が本当に有難うなる、ね。
入殿と、言うなら、まあちょっと休んでおりますし、まあ大変、えー、苦痛らしいです。ね。あのー、13日の日にもう僕は死ぬかと思うたと、もう僕はこのまま死ぬかもしれんちゅうて家内に言うた。ぐらいに辛かった中でです、もうそれこそ、もう本当に大変さで、あ、まあひどかったらしいけれども、そういう中にあっても5時の御祈念には起こしてーと自分が眠ったとちゅうてからね(笑い)。一つの信念ですよね、5時の御祈念に対する。
ほんでやはり、5時の御祈念にはきちっと楽できる、ね、言うならそれなりの、ああー、先生が信心が、ね、最近は、ね、5分、10分ならよかばってん、15分も遅れるような事があった。もう私の信心で一番、まあ、あるので素晴らしいと言うならですね、ここのところを一部でも間違えない事だと思うんですよ。ね。5時って言うたら5時。4時と言うたら4時。
そのためには只今の私共は4時から御祈念さして頂く時の30分間前に起きます。で、ここに座りに出て来ます。そして神様へ向かう姿勢というものをその30分の間にいよいよ作ります。まず私にとってはその30分が一番有り難いと言うのはそれなんです。ね。神様に向かうという事はね、とても眠りながらほんで神様へ向かう、手も洗わん口も洗わんのは、はあ、神様に向かうなんて、もう本当に言語道断。ね。
第一神様へ向かったらですね、眠気がするというような事で、それこそ神様に一心が届くはずがないでしょうが。どんなに眠かっとっても疲れとっても御神前に出たら、すーっと目が覚めるというくらいな、言わば神様を頂かなければだめです。ね。
そういう例えば、言うなら、もう死ぬかも分からんと言うほどしに、ま、まあ瀕死の状態下にあってです、ね、朝の御祈念だけは、という一つの、うー、まあ一生懸命な思いがです、深くこう、本当に今日あって14、15、16、3日間の御祈念を皆が頂かれてからどう、先生も一生懸命だろうが、皆さんもやはり一生懸命にならなければおれないほどしの、なんか雰囲気をそこから感じます。こらどこが神様に通ずる御祈念だ、これでこそ神様が聞いて下さる御祈念だと、いうふうに思うんです。
気だるいような大祓いは、はあ、(くぬぐいような?)、もう体はもう(はじめとしこてんちょうで?)下半身がくいー苦しちからお祈りをした時がある。ね、もう本当にね、窪い信心の稽古をさして頂く一つの第一歩をね、いわゆる御神前に、神様へ向かう、御祈念をするという姿勢の中から、それを頂かなければいけんと、ね。
それが神様へ向かう、信心さして頂く者の、いわゆる拝みあいの姿勢である。そこで、言うならこの97節から私共が、ね、信心をさして頂く者、神様も絶えず心の中で、まあ頂かして頂いておる訳ですね。
最近はここ合楽の試験の信心ですから、まあ沢山お届けに来られております。そのお届けを、おおー、そうて、えー、先生、家の息子は合格するでしょうかというような事をお伺いされる方があります。これはまあ他の事の場合でもそうです、ね、こういうような事を思い立っておりますがどうでしょうかと先に答えを聞きたいというような人があります。ね。
それで私、うー、まあ、人に( ? )という事でした。聞かせて頂いて話したんですけれども、うー、昔はね(ひとのみ?)っちゅうんでしたかね、えー、「?」さんの(?)に大変な霊を背負われました。えー、普通に、いー、事件で、ああー、そりゃあ(もとうつぶし?)になりましたですね、あの(きょうど?)。うー、なんちゅうたかでしたね・・・、あ、えー、あっ、(おぼとけ?)、ね、(おぼとけ?)の教主ですよね。その方はもう大変な霊能者であった。
ある時に、まあ新聞記者がもう本当に神様の、もうおばあちゃまらなんか出とった、あー、そんな(もうき?)魅了していったような事の人がおるはずないと、一つ楽しみに行こうと言って、その楽しみに行った。その時にです、ところがその(?)に総務員さんが、うーん、まあ今日は一つあんたにはなあ、手品のような事をして見せようと言うてね、(笑い)、新聞記者に、あんたの今の財布の中には1円札が何枚、50銭が何枚、1千5千が何枚ちから、ぴしゃっと当てたですよ。ね。ほんで恐れ入ってしまって、はあと言うた訳なんです、ね。
金光様の信心を頂いておってもね、そういう事を非常に「奇」にする人がある。いわゆる、まあ「奇」というのは、奇跡の奇ですね。うん。もうそれで、はあもう合楽の先生、神様の(?)手にしとる。そら事実ね、あの、皆さんも沢山体験なりましょうけれども、神様が教えて下さる事をね、教えて下さってもですよ。それが信心だのうと言うたら大変なんです。
ね、今の「たつみ?」先生のところの御信者さんには二人、まあ赤ちゃんがお腹にあるうちに今のを頂きたいちゅうとるですからね。そりゃ物もないか男の子か分かるもんね。
花子ちつしきゃあ女子、一郎、太郎ちつきゃあ男というふうにちゃん分かる。もう(?)なんか私は申しました。もうこれでいいですよと、こういう事が金光様の御信心といったような事になっては大変なんだから。
ね、だからそういう意味で、んなら、はあ神様なるほどござるというな事が分かっただけでおかげが頂け道じゃないですよ、金光様の御信心は。ね。それだから、そういう事を分からして頂くから信心は有難いと言うのでなくて、信心を(どんじあらげ?)というようなものに使ったらおかげになりましょう。ね。
そこでです、皆さんがね、今日の97節「神を拝む者は拍手をして神前に向かうてからは、例え槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならん。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ」。神に向かう姿勢という物をね、このように厳しく教えられておられる。そして教えられる事はどういう事かと言うと、ここでは、「一本勝負」ということを言われますよね。ね。例えば、んなら(こてれじ?)耐えておれられよるとお願いを致します。ね。
言うなら試験なら試験の事でもお願いを致します。お取次を頂いてお願いをさしてもらう。ね。そしてそれがです、ね、もし不合格であってもです、不合格の通知を受けた瞬間です、一本勝負、どういうふうな受け方ができるかという事が金光様の信心であり、稽古するとこはそこなんです。ね。
例えば難儀な事が起こって来ると、ね、その難儀が、難儀をその受けるその姿勢、それが「一本勝負」なんだと。ね。その事をね、有り難いとこう受けさして頂く稽古をするんです、金光教の信心て言うのは。だから力を受けていくものである、だから、ね、信心の稽古を本気でしておかなければならない事になるんです。人間の、ね、目先目先の小さい事が、ね、思うようになるとか、信心さして頂けばそれだけ便利な思いをするとかいったような事が信心ではない、ね。この世には、言わば神様が「氏子可愛い」という御一念の思いだけしかない。言うなら「神の愛」だけしかない。ね。
難あって喜べとか、難はみかげとかと言うような御教えがありますがです、それを本当に難をみかげとして受けれるという事はね、信心の稽古をしっかりしとかなきゃいけんごとある。おかげ頂いたという事です。自分のそれは思いの反対の事であってもそれをおかげと受けれる稽古をしとておかなん、だから信心する者は肉眼をおいて心眼を開けとも仰られる、ね。例えばそういう問題に遇った時にです、例えばしもたと思うたらもう(いっぽじ?)だったとか。これだけ信心するのにちゅうたらもう信心からうんと後退した時。ね。
だからそういう時にです、例えばこれはまだ自分の信心が足りんからだと、一歩前進する生き方か、でなかったらもうそれまででおかげ頂いたというおかげとして頂かれる、それが一本勝負なんだと、もう絶対、ね、難がみかげに、絶対なる、こういう頂き方ができたら。普通の信心の薄い人やらない人やらは信心しおってどうしてあんな事がというような時でもです、それをどっこい有難く受けさして頂く稽古が出来ておったらです、ね、だからそういう例えば、後の小物、前途に起きてくる事柄の全てがね、神愛の現れだという事を本当に知っておかなければそれを有難く受けられない。ね。
それでそこを繰り返し繰り返し、はあ信心は「一本勝負」だと言われるが、この(かいごうだけ?)は失敗した。けれどもすぐ気がついた、まだ繰り返した、何遍も何遍も失敗をしていきおるうちにです、ね、それを即有難いと受けられるような稽古がだんだんできてくる。ね。
例えばそういう例えば、んなら普通で言うなら難儀といったような、困ったといったような事をおかげとして受けられるようになったらもう力がごろごろつく訳です。これはもう本当にあれよあれよというようなおかげになってくる。どのような場合でもそれを有難いという心で受けられる稽古なんだと、金光様の御信心は。ね。
そりゃ例えば、えー、昨日も午後から、あー、(?)が3人連れでお参りをして、昨日にはお願いを、昨日も、あー、お参りをしてきました。ね。夫婦で参って来ておる方には私は申しました。まあどんな具合やと、不安だとこう言う。けれどもね、例えば10人なら10人同じ点数の者が、者だったとするならね、もう絶対ここにお願いをしておる者が問われますよと私は言うちゃった。けれども点数が低いのにね(笑い)、いくらおかげを頂くけん、そんな事できんよ。ね。
神様の働きというものは(むすう?)言うたら出来ん事はないですけどね、そりゃあまあ言うなら試験管を神様がごまかせさるような事は、もういつも体験する事です。2、3日前、「うんなか」君が大学の今度、ああー、卒業さして頂いて、もう自分もこの(かまじゃ?)できとらんと思とったのが、どげん考えてもこら神様の(ごなかっちゃどんなこっちゃろうと?)思うようなおかげを頂いたというお届けしております。
だからね、そりゃあるとあるけれどないものとして、一回今日は聞いてもらってです、例えば、同じ実験なら実験が10人おるならばです、そのお取次を頂いてお願いをしておるような者がおかげを頂く事はもうっ絶対です。ね。
けれどもそういう事ではね、今日の夜97節からね、軽い一心は届かん。物音や物声を聞くようではと、例えばどういうような槍先で突かれるような事があっても振り向かんで進むほどしの信心。ね。例えばどういう、例えば信心をさして、ここでは拝む者の姿勢だけれども、信心をさして頂く者の姿勢という事になる。ね。
しかもそれは一本勝負。普通で言うなら、ああ困った事になったと言う事にでもです。もう次の瞬間にはおかげ頂いたと、おかげとして受けれる、稽古なんだと。それならそれが何故おかげかという事をです、日頃教えを頂いておかなければ分からない、いや教えを頂いておっても、分かっちゃおるけれど、それをおかげ頂ききらん訳なんです。そこを繰り返し繰り返し稽古していきよるうちにです、ね、それをそのまんま即おかげ頂いたと受けれれるようになる。それが物音や物声を聞くのではない、槍先で突かれても一つも心が揺るんではいない。ただ、神様の働き、ただ有難しと受けれる稽古、金光様の御信心の素晴らしい事はそこなんだと。ね。
例えばどのような事でも有り難い受けれたらですね、もうそこにはね、もうなーんも無くなるんですよ。ね。天地の事は、ね、人間の眼を持っても知りて知りがたし、恐るべしと仰るが(きょうつ?)の中にはもう恐るべしというような働きがいっぱい実はあるとです。ね。そら私共は分からん世界。
けれどもその恐るべしというような世界に住んでおってもそれを私共はただ純粋に有り難しと受けたらその恐るべしという事が全部聞いちゃる。それが金光様の御信心の一番素晴らしいところ。ね。もう理屈じゃないのです、そこは。ね。ただ私共は全ての事を有り難しと受けれる稽古をさして頂くのである、ね。それには例えばここに97節に申しますような、信心の、いわゆる、うー、まあかっこたる姿勢というものが必要なんです。しかもそういう稽古を一生続けて行くと言うのです。ね。
それが例えば、本気で改まらなければ、本気で魂を清めて行くという事にならなければです、心の目も開けませんし、またそういう場合にです、これだけ信心するのにといったような心しか湧いてこんのです。ね。これはまあ私が体験さして頂いて言う事ですから間違いがない。もうどんな問題でも「おかげ」とすぐ受けたら絶対おかげになるとです。その次のおかげなんかは大変なものなんです。ね。
だからそういう素晴らしい事を稽古するのですから、御苦労さして頂くのに今まで半分でです、ね、それこそ田中さんの言葉を借りると一生懸命御祈念をさして頂いて、ね、幹三郎ちゃんが初めて御神前に出て御祈念をあらすの、後から付けさして頂いておったらそれこそここのお広前に芽が生えたようなこういう気持ちだろうか、銃で、例えば槍で突かれるような事があったっちゃ振り向くような事もあるまい、またはもう殺されたっちゃ神様の方から向きは変えんぞといったようなものが生まれてきておる。
そういう例えば(ふしょ?)、そのためには御神前に向かうからにはです、ね、まずその姿勢を正せとこう言う。(けっこうちゅうに?)急がして頂く事もなりをきちっとさて頂く事も信心に向かわして頂いたら、ね、そういう私は厳しいものが神様と多くの、言わば相対する場合には必要である。それになんぞが御祈念中に眠っとったちゅう事ではね、神に一心は届くはずがない。これはもう信心の第一歩なんです。ここでは「神を拝むものは」とこう仰っておられる。ね。ですから神様を拝まして頂く者がそういう姿勢をとって、しかも一生懸命、一心不乱にね、やはり拝まして頂くと。という稽古が第一歩であり、言うなら、その信心を私共の日常の中に頂いておる、いわゆる信心をさせて頂く者の姿勢というのは今日私が申しましたように、結果が右であろうが左であろうがそれは神様の御都合として受ける、いや、それを有り難しとして受ける。
これはまだ信心が足りぬからだとして受ける。そういう受け方なんです。ね、そこに信心は「一本勝負」と言われる、訳はそこにある訳なんです。その「一本勝負」でです、もうそれを必ず、言わば、あー、「一本勝負」に負けないでおかげを頂かせて頂いた。先の事もおかげというのはもう私共がね、もう何と言うか、まあ言うならあれよあれよというようなおかげになってくるんです。
だからなるほど難はみかげだなあ、難は喜びとしちゃる訳が分かります。しかもその喜びというのはです、ね、天地の事は人間の眼を持て知りて知りがたし、もと分からん事ばっかり、私共ここまでは分かっとるから、分かっとるけれどもこれから先は分からんと言うところは沢山ある。しかもね、けんそこのところ恐るべしと結んでおられる。天地のことはもう恐るべし、もう恐ろしいばかりの例えばしくみがあるわけである。ね。
それを程度の低い信心とか学問とかと言うのはそこほどのところをうろうろしている訳です。けどもそういう恐るべしというような事でもです。有難しの前にはもう(しもみ?)においも欠けるがごとしなのです。ね、ですから私共はそういう素晴らしいものを頂かして頂く稽古をしておる訳です。ね。
それが抜けるんです、信心さして頂いておると、ね、稽古さして頂いておるとです。もう普通信心がない時ならもう本当に、それこそひっくり返るほどびっくりする事であろうけれども、おかげを頂いて信心の稽古を日頃さして頂いておるおかげでです、おかげでびくともしませんでした、皆神様にお礼を申し上げる心すら湧いてきましたと、皆さんも体験しておられるでしょうけれども、その後のおかげの素晴らしいこと。ね。
だから金光様の御信心はどこまでもです、言うなら出口はいろんなに錯誤錯誤じゃないけれども神様を分からせるために、ね、それこそ手品のような事をして見せて不思議がらせて、神様は、に入ってくるなんていうような事ではないという事、金光様の御信心は。
ね、お願いをさして頂いたらもうお願いをした事は神様にお任せするという生き方。しかも結果は右であろうが左であろうが、出たとこ勝負。そこを「一本勝負」で有難いと受けて行くという稽古をするという事だけなんです。恐らくこの稽古はです、ね、一生続けられる事であろうけれども、そこのところを稽古さして頂く楽しみと言うか、ね、有難さというものはそこを稽古さして頂く者、そこに、まあその「一本勝負」の、いわゆる形で頂くほどしの信心ができる事の喜びというのはもう、またともう換えられない、何に換えられる事もできぬほどしの有難さなんだ、ね。
その有難い、ね、おかげを頂きたい。真に有難いと思う心をすぐに受けるの初め、または此の方の道を喜んで開いてきた道だから喜びでは心は刺せん。普通では喜べない事をそれを喜びで受けれる心、いわゆる自分の心というものを自由自在に有難い有難いで受けて行けれる心を鍛えて行くこと。しかも鍛えるという事は様々な問題を持って鍛えるだけであって、それに勝ちを占めて行く為には、これがいよいよ本心の玉が清められ、改められて行かなければ受けられる事ではない、頭で理屈で解ったぐらいな事でできる事ではない。本気でこれを清めることに、そしてまたさしてもらわなければです、ね、そういう見事な、言うなら「一本勝負」に勝って行くようなおかげを受けられるのです。どうぞ。